nearproの日記

特に意味はありません。主に読んだ本をただただ記録します。

きりぎりす (新潮文庫)

きりぎりす (新潮文庫)

太宰治は僕の中で永遠のヒーローである。武者小路や谷崎、ジッドはもちろん好きだし非常に素晴らしい文豪であるが、僕の中で太宰を超えるヒーローはもはや登場する気配がしない。なぜここまで太宰が自分の中に入り込んだかといえば、自分が10代前半だった頃に出会ったからという一点だけが理由なのかもしれないが、もはや時間は戻せないのだから、こればっかりは仕様が無い。

毎年、年明けの冬に三鷹禅林寺へ墓参をすることが大学時代からの慣行となっている。毎年変わらず三鷹駅の南口から中央通の左手にある田中花園という花屋で花を買い、そこからさらに南に歩いたところにあるミワタというタバコ屋でゴールデンバッドを買った後、そのまま脇道に入り教会の横を通って禅林寺に入っていく。僕は太宰の墓の前で去年を振り返ると同時に今年に思いを馳せる。そうして一通り思いを馳せ終えると、元きた道を引き返すのである。これらのことを毎年変わらず実行することで、逆に毎年の自分が浮き上がってくるように思えるから面白い。

鴎が唖の鳥であるという出鱈目から始まるこの作品は、短いながら戦時中の太宰を読む上ではもちろん、太宰の作家としての人生を考える上で重要な作品だ。

今から2000年ほど前、魏の文帝曹丕は典論の中で『文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり』と書いた。自身が優れた詩人であったとはいえ、中華に三国が鼎立する動乱の中、こういった事を言えるのはなかなか面白い。興味深いことに、日本が戦争という動乱にいる中、太宰は鴎の中で『社会的には、もう最初から私は敗残しているのである。けれども、芸術。それを言うのも亦、実に、てれくさくて、かなわぬのだが、私は痴の一念で、そいつを究明しようと思う。男子一生の業として、足りる、と私は思っている』と書く。

私は、いま人では無い。芸術家という、一種奇妙な動物である。この死んだ屍を、六十歳まで支え持ってやって、大作家というものをお目にかけて上げようと思っている。その死骸が書いた文章の、秘密を究明しようたって、それは無駄だ。その亡霊が書いた文章の真似をしようたって、それもかなわぬ。やめたほうがいい。にこにこ笑っている私を、太宰ぼけたな、と囁いている友人もあるようだ。それは間違いないのだ、呆けたのだ、けれども、――と言いかけて、あとは言わぬ。ただ、これだけは信じたまえ。「私は君を、裏切ることは無い。」

僕はここに、人間失格のあの有名な文句の本質を感じる。残念ながら彼は六十歳まで己を支え持つことはなかったのだけど、いまでも僕は、この文章に、男子一生の大業を決意する太宰の心意気に、心が震えるのだ。

そして太宰はこう結ぶ。『唖の鴎は、沖をさまよい、そう思いつつ、けれども無言で、さまよいつづける』