nearproの日記

特に意味はありません。主に読んだ本をただただ記録します。

ヘーゲル『精神現象学』入門

ヘ-ゲル『精神現象学』入門 (講談社選書メチエ)

ヘ-ゲル『精神現象学』入門 (講談社選書メチエ)

哲学書をいきなり原典で読むと挫折するという教訓は、僕が大学時代に得た数少ない勉強の成果だ。過去に何度かそれで失敗をしている上に、相手は最も理解が困難なヘーゲルということもあって黙ってジュンク堂で入門書を買った。長谷川宏にしたのは、在野のヘーゲル研究者として有名でわかりやすいという知識をネットで得たから。

意識が知を獲得する過程を歴史になぞって説明しようという若き日のヘーゲルの情熱が十二分に現れた未熟な大書とでも言うのが精神現象学を上手く表しているらしい。とにかく意味が不明な箇所が多々あるが、なんとなく大意としてヘーゲルが言いたかったことを知れた気がする。

我々を前に進めるのは「否定」の力である、とヘーゲルは説く。現在の自己に対する不満、社会との不調和、宗教的な目覚め、今この瞬間に抱える不安を超越するために意識は否定を試み、新たな知(自分、社会、共同体、宗教)を獲得する。

しかし、その「否定」は言い換えれば歴史に対する肯定だ。否定を重ねて上昇していく目の前に横たわる歴史は必然的でなければならないし、その否定によって何かが獲得されるべく、その場にあったのだと思うことが必要だ。だから、アダムがエデンを追放されるのも必然であり、イエスが神の子として現実世界に誕生したのも必然である。そう思うと、原罪神話というものが変わって見えてくる。

哲学的な問いの答えを探すのは馬鹿のやることだ。考えないほうがいいし、健全な人生を送れると思う。ただ、一度そう言った問いに答えを見つけようと思ったからにはすべてを投げうって、否定の、そして必然の歴史の中に自分を刻み込まなければならない。

話は変わって、ここ数ヶ月ずっと女子高生はなぜ無敵なのかという問いが頭の中をぐるぐると回っていて、なんとかそれを見つけようと文章を書き続けていた。書き終わってしばらく経つけど、その答えの一つに「女子高生はすべてを否定する力を持っていたから」があるような気がしてきた。女子高生には、過去も未来も現在も経験も親も社会も友達も何もかもを否定できる若さがある。僕はそれを書きたかったのかもしれない。

絶対者や絶対の真理は、否定に否定を重ねたそのどんづまりにあらわれてくるというより、否定に否定を重ねる運動の総体をさして、それこそが絶対的なものであり、絶対の真理だといわねばならないのだ。個々の相対的な存在や事態や真理は、幾重にもわたる否定の運動をとおして一つの大きな円環をなす。そのことによってそれらは絶対の存在や真理へと組みこまれるのであり、同様に、個々の相対的な意識も、自己否定に自己否定を重ねる一つながりの大きな運動を展開するなかで、絶対の意識へと組みこまれるのである。

たまたま本についてたしおりにソシュールの名言が書いてあったので、次はちょっとソシュールを読みたい気分になってる。