nearproの日記

特に意味はありません。主に読んだ本をただただ記録します。

ツァラストラはこう言った

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

最近、藤原定家全歌集の全歌を写経の如く書き写すという作業をしていた。そんなことをしている中で、人との会話のなかで三段の変化の話が自分の口から出てきたので本棚から引っ張ってきた。

藤原定家の歌をひたすら書き写していると、彼の歌がやはりいかに素晴らしいかを感じることができる。いままで単に「巧さ」としか表現できなかったものの裏に、リズムや調子はもちろん、言葉の縁やつながりといったより細かな巧みさを感じられるようになった気がする。もう一つ、前から練習したかった変体仮名まじりの和歌の書をやり始めた。そうすると、その瞬間だけでも、言葉の美しさに対する自分の感度が上がっていくことに驚く。

書道も、まずはお手本を書き写すところから始まる。小学校の頃に習字教室に行っていた人はわかると思うが大抵は手本を横に起き、それを忠実に自分の手によって再現することを目指すのだ。そしてようやく楷書の形の理解が進み、ある程度の文字であれば初見で綺麗に書けるようになった頃に行書、そして草書と進む。

剣道もそうだった。剣道にはもっと分かりやすく「守破離」という言葉がある。つまり「教えを忠実に守り、それを破り、そして離れる」ということが剣道の極であると言う。離れるといっても、別れるという意味よりも、教えという概念から離れて自在に扱うという意味に近い。

幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。 そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。

ニーチェの精神の三段の変化は、精神はもちろん、こうしたあらゆる何かの習得に当てはまる。奴隷のように習い、そこから自由を欲し、それを超越してはじめて自分の世界を獲得する。しかし、大切なことはニーチェは幼子の精神をゴールとして定めつつも、決して駱駝や獅子の精神が不要であるとは言わず、むしろ必要な段階であると説いている点だ。

歳をとるにつれて「習う」ということに明確な目的を持ちはじめる。綺麗な字を書きたい、この曲を弾きたい、良い歌が詠みたい、分かりやすい文章を書きたい。大人になり、そして時間が無くなっていくと、そういった気持ちも勿論大切なのかもしれない。けれど、目的もなく意味すらわからない奴隷のような修行をすることなく、実用の部分に心を奪われてしまうと、やはり本当の意味で何かを身につけることが出来ないと、ニーチェは言っている気がする。