nearproの日記

特に意味はありません。主に読んだ本をただただ記録します。

失われた横顔

失われた横顔 (新潮文庫)

失われた横顔 (新潮文庫)

サガンの第十作。田辺聖子の「ジョゼと虎と魚たち」の主人公の名前の元ネタとなったのがこの小説に登場するジョゼであることで有名。また、ジョゼ三部作を成す、「一年ののち」、「すばらしい雲」、「失われた横顔」の第三作でもあります。

「一年ののち」、「すばらしい雲」とダラダラとしたパリの様子ノリで退屈してたけど、この「失われた横顔」は非常に面白かった。「悲しみよこんにちは」に負けず劣らず、サガンの名作だ。今までの二作とは違い、ジョゼの一人称視点で話が描かれているが、サガンは一人称のほうが圧倒的に面白い。

物語は、ジョゼとアランとの決定的な夫婦生活の破綻からはじまる。アランはますます嫉妬深くなり、ついにジョゼを自宅に軟禁するに至る。そんなジョゼを救ったのが、偶然パーティで知り合った大資産家の初老のジュリュス。ジュリュスはジョゼにさまざまな援助をし、ジョゼもその親切さに甘えながら美術記者として自立した生活を送り始める…。

ジュリュスとの関係はプラトニックなものであると信じる、あるいはそう信じたいジョゼと、徐々に明らかになっていくジュリュスのねらい。読んでいるうちから、いつどんな修羅場が訪れるかハラハラしながらどんどん読み進めてしまった。

サガンの作品はわりかし、最後のシーンでタイトルの種明かしをするようなパターンが多く、カタルシスを形成するが、今作も最後に「失われた横顔」の意味が明らかとなり、読後感は抜群だった。

人はいつも自分の感情が、相手や生活や年が変わるからと言って、思春期の時のとは違ったものだと思いこんでいるが、実は全く同じものなのだ。なのに、毎回、自由になりたい欲望、愛されたい欲望、逃げたい本能、追いたてたい本能などを、すべて、天祐の記憶喪失によってか、幼稚な自惚れによってか、全く奇抜なものだと信じている。

こんなことを語るジョゼが、迎えた結末の後に果たして幸せになれるかどうか、まったく不明であるし、何も変わらない繰り返しが待っているかもしれないが、サガンも初期に比べかなり丸くなったというか俗物的な幸せを認めはじめたように思える。

すばらしい雲は簡単に入手できるし、一年ののちもわりと探せば手に入るが、失われた横顔はかなり数が少ないらしく、わりと高い値段がついているが、ぜひジョゼ好きは最後まで読んで欲しい。

なお、文学的なセックスの表現が素晴らしく、村上春樹大江健三郎はぜひ見習って欲しい。

すばらしい雲

すばらしい雲 (新潮文庫 サ 2-5)

すばらしい雲 (新潮文庫 サ 2-5)

サガン五番目の小説。田辺聖子の「ジョゼと虎と魚たち」の主人公の名前の元ネタとなったのがこの小説に登場するジョゼであることで有名。また、ジョゼ三部作を成す、「一年ののち」、「すばらしい雲」、「失われた横顔」の第二作でもあります。

「一年ののち」から2年が経ったジョゼのお話。ジョゼはアメリカ人の金持ちの美男子アラン・アッシュに首ったけになった後に結婚するが、アランは病的な嫉妬妄想をもつ男だった…。というところから話ははじまる。

逃げても逃げても、執拗に追いかけてくるアランに悩まされる中、作家としての成功を収めながらジョゼへの愛情を再び抱くベルナール、アランを愛するローラ・ドール夫人。ジョゼのかつてのアマン、マルク。相変わらず、好いた好かれた的な物語が続く。ただ、「一年ののち」は群像劇だったが、今作はもっぱらジョゼ中心に描かれる。

タイトルの「すばらしい雲」は、ボードレールのパリの憂愁の冒頭、異邦人の一節である。一番好きなものを問われ、家族や祖国、金でもないと言う異邦人が最後に言った言葉から取られている。

「では一体何を好むのか、不思議なる異邦人よ?」 「僕は好む……流れ行く雲を……見よ、あそこに……あそこに……すばらしい雲が!」

(この「すばらしい雲」という一節は、「一年ののち」でベアトリスへの恋に破れ、ジョリオの策略もあって酒と女に溺れ、アル中になったアラン・マリグラスが、ベルナールに放った言葉にも引用される)

そんなこの作品。三部作の中で一番しっくりこなかった。嫉妬深い夫の嫌がらせの度に「もうやだ!」と思いながら、ちょっとした出来事やタイミングで深い愛情に包まれて、夫婦生活を続けていくジョゼの心情の大部分は理解し難い。わからなくもないけど、読んでてイライラしてしまった…。

それから、ジョゼは話し出した。微に入り細に入り全部を話した。アパルトマンはどうだったか、どんなふうにマルクが彼女の着物を脱がせたか、彼らの位置、彼らの愛撫、彼女を征服する瞬間に彼が何と言ったか、それから彼女に強要したことなどを。彼女は最も的確な言葉を使い、実際、一生懸命に思い出そうとしていた。アランは動かなかった。彼女が話し終わると、彼は妙な溜息をした。

これといっておすすめはできないが、怠惰と惰性の恋愛やニヒリズムが好きな人は良いかもしれない。あと、次の「失われた横顔」は非常に面白いので、そのために読むくらいがちょうどいい。(読まなくても全く支障はない)

一年ののち

一年ののち (新潮文庫)

一年ののち (新潮文庫)

サガンの第三作。田辺聖子の「ジョゼと虎と魚たち」の主人公の名前の元ネタとなったのがこの小説に登場するジョゼであることで有名。また、ジョゼ三部作を成す、「一年ののち」、「すばらしい雲」、「失われた横顔」の第一作でもあります。

25歳で陽気で自由を愛しつつシニカルなジョゼ。そんなジョゼに恋する既婚の作家、ベルナール。その妻でジョゼを大の友人と信じるニコル。ジョゼの恋人、ジャック。パーティ大好きなジョゼの友人、アラン・マリグラスとファニー・マリグラス夫妻。アランの若き従弟、エドワール。エドワールの意中の相手、女優を目指すベアトリス。そのベアトリスを愛人にしようとするジョリオ……

この沢山の人物がフランスのパリを舞台にそれぞれに恋し、企み、交じり合う大人の群像劇。愛とか嫉妬とか成功とか野心とかあらゆる要素をごった煮して出来上がったのがこれですという感じで、好き嫌いが分かれそうな作品。「ジョゼ・ベルナール・ジャック・ニコル」と「アラン・エドワール・ジョリオ・ベアトリス」の奇妙な2つの四角関係が主に話を進めていく。個人的には、前半は読んでいて退屈でしたが、後半はなかなかスラスラ読めた。

これだけ沢山の人が登場し、さまざまな出来事が人々を変えていく。それでも、「一年ののち」には、過ぎ去った一年の時間が存在するだけだ、とベルナールは言う。

去年と同じのだ。覚えている? ぼくたちはここにいた、同じ人たちといっしょに……そして、あのピアニストも同じ曲を弾いていた。彼はきっとほかに考えがないんだろう。ぼくたちだってそうだけど……ね(中略)われわれはまたもや孤独になる、それも同じことなのだ。そこに、また流れ去った一年の月日があるだけなのだ……

とても有名なこのセリフ。さすがの実存主義は、とてもサガンらしい。

ある微笑

ある微笑 (新潮文庫)

ある微笑 (新潮文庫)

悲しみよこんにちはで衝撃的なデビューを果たしたサガンの二作目。主人公は20歳の学生、ドミニック。前作同様、執筆時のサガンの年齢とほぼ同じである。『悲しみよ こんにちは』は母性の象徴としてアンヌが登場するが、本作では同じ母性の象徴的存在としてフランソワーズが登場する。フランソワーズはドミニックを実の娘のように哀れみ、愛を注いでくれる存在である。

基本的なあらすじは、ドミニックはそんな大好きなフランソワーズの夫であるリュックに恋をして、ひと時のアヴァンチュールを楽しむが、最終的にフランソワーズがすべてを知り不倫の恋は終末を迎える、というもの。所謂、フランス文学的な、大人が子供に対してイニシエーションを施し、子供が大人になる話だ。そういう意味では、男女の違いはあれど、コレットの『青い麦』に近い。

きっと、かれが現在のようでいることはもう決してないだろう。けれど、この一瞬は今此処にあるのだ、私たちのために。私は、それが恋なのだか、それとも気が合うということなのだか知らない。でもそんなことは重大ではないのだ。

シニカルな少女が、どんどんと恋の深みにハマる様子は、同年代でなくともどこかしら懐かしみを覚えながら読むことができるんじゃないかと思う。すべてを自覚しているつもりでいて、全くそんなことはない。そして、気づいた時には、リュックなしでは生きていけない自分がいることに気づく。その感情の爆発とその後に続く絶望の日々。瞬間瞬間を生きる少女がその過ちに気づくさま。この辺りの描写はさすがサガンという感じだった。

悲しみよこんにちは』が少女の狂気を向けられたアンヌの悲劇的な結末で終結するのに対し、こちらは、鏡に映る“微笑み”で幕を閉じる。それは、単にひとつの恋を克服した姿かも知れないし、あるいは、狂気を飲み込み消化することによって、子どもから大人へと変わる、そんな瞬間なのかもしれない。

憤死

憤死 (河出文庫)

憤死 (河出文庫)

綿矢りさが嫌いだと言った途端に本屋の新刊コーナーでこの本を見つけちゃうんだもの、人生はよくできている。あるいは、はじめは嫌いだと言っていたのに気づけばその人が初恋の相手になってしまった少年の性なのか。

この本は短編集である。掌編の「おとな」、短編の「トイレの懺悔室」「憤死」「 人生ゲーム」の計四作。いずれも読みやすいし、面白い。だけど、ただそれだけな感がすごい。ただただ、世にも奇妙な物語を観ているようだ。

解説が森見登美彦だったが、まさに森見登美彦的な感じといったほうが良いのか、言葉や調子は流暢で素晴らしいのだが、ただそれだけ。中身がない。

いまさらだが、ぼんやりと、しなければいけない、と自分に言い聞かせてきた、重責にも似た使命を果たすことが、私が真にしたかったことなのかもしれない、とも思った。いままで気づかなかったが、私は“しなければいけないこと”に救われてきた。

文芸として成り立っているし、話も面白いので通勤通学の電車で読むにはちょうど良い。 だけど、こんなの、僕が嫌いな綿矢りさじゃない。