nearproの日記

特に意味はありません。主に読んだ本をただただ記録します。

わたしを離さないで(舞台)


『わたしを離さないで』 PVⅡ - YouTube

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

久しぶりに多部未華子の舞台を観た。原作は映画にもなったカズオ・イシグロの『NEVER LET ME GO』。演出、蜷川幸雄。脚本、倉持裕

13:30開演で、途中20分・15分の休憩を挟みながら終演は17:25。実に約4時間の超大作。一般的に舞台といえば大体2時間程度で、長いと言われる宝塚でさえ3時間ちょっとなのだから、4時間は非常に長い。舞台を観るのにも体力要ると痛感した。

原作モノということと映画にもなっているということで多少のネタバレを恐れずに以下感想や雑感など。

時間の不可逆性みたいなものに最近強い興味をもっているのでそういう視点で見てみると、青春の(もっと言えば時間の)後戻り出来ない感が出てて良かったというのがざっくりとした感想。

オリジナルと呼ばれる人間に対して自らの身体を提供するためだけに生み出されたクローン人間の子どもたちにとって、その青春も、時間も、命すらも目的のために与えられたものでしかない。けれど、自分たちの運命を知り、それを受け入れる彼らの青春と、僕たちの青春と何が違うだろうか。成長とともに将来に不安を覚え、性欲を感じ、運命を受け入れる姿と、僕たちの間に相違はない。本作で描かれるのはこうした普遍的な感情だ。

もし、彼らと僕たちの間に違いがあるとしたら、そして同情すべき点があるとしたら、与えられる職業が「介護人」か「提供者」かの二つだけに限定されているという点だ。その点で言えば確かに同情の余地はある。ただし、可能性の奪われた若者と捉えることも可能だけど、逆に言えば明白な使命を持つ者としての恍惚、幸福を彼らは与えられているとも言える。そこに羨望を感じざるを得ない。時として青春に与えられる可能性という言葉は若者を絶望の淵へと追いやるが、彼らにはそれがない。彼らの人生は一本道なのだから迷いが生じる余地はない。 (似た例としては、医者の子供が医学部に入って医者になるあの感じ、本人も生まれた時からそうなると思っていて迷いもせずに医者になるという類の物語? だろうか)

「何かの為に生まれ、目的を果たして死んでいく」というこの作品に流れる精神世界についてもうすこし考えると、ヒトと家畜という関係性に似ていることに気づく。少し前に動物愛護団体系のネタで「動物はあなたのごはんじゃない」という一文に対する強烈なアンチテーゼを含むコラ画像が流行った。どちらかと言えば僕も過激な動物愛護に対してはアンチ側の人間で過激な動物愛護活動に眉をひそめる側だ。家畜が食べられる運命に別段疑念を覚える人間ではない。(この疑念と恐縮・遺憾とはまた別の感情で、釣り中に幼魚や若魚に針を飲み込ませて殺してしまった時は「申し訳ないなァ」と思いながら仕方なく食べる)

じゃあ、この作品で描かれる「オリジナルとクローン人間」との関係性はどうなのだろう。恐らく、多くの人が思い浮かべるだろう感情としては、先ほども言った「同情」だと思う。言わば「クローン人間はあなたの提供者じゃない」という思想だ。しかしそういった思想をもった人間はこの舞台に登場しない。外の人間もヘールシャムの保護官も、そして生徒さえもオリジナルと提供者の関係を認めている。先生の興味はあくまでクローン人間に心があるかという点でとどまっており、心がある故に提供という制度を無くさなければならないとは決して言っていない。終盤の台詞にもある通り「知ってしまったからにはもう戻れない」のであり、ここもまた時間の不可逆性の影を感じる。それを愚かに思うこともでき、同時に、その必然がまさに運命の本質のように思える。

「Verweile doch, du bist so schön!」というファウストの有名な台詞がある。「時間よ止まれ、お前は美しい」というように訳されるが、時間の美しさの本質は流れることだ。圧倒的な力で流れていく時間だからこそ、お前は美しいのであり、この時間の永遠なるを願う。僕たちは時間を前にすると自分の人生すらただ眺めるだけしか出来ないのかもしれない。そして、その約束があるからこそ、記憶や思い出が美しく見えるのかもしれない。

昔からここには国じゅうの宝物が流されて来るの。何かの理由で手放すしかなくなったとか、なくしてしまった宝物が。

印象的だったのは、ゴミのようなものが漂う中、記憶の世界を回想するように若者たちが遊びまわるシーン。八尋の「多くの人にとってはゴミかも誰かにとっては大切な宝物かもしれない」というような台詞が作品中にあるが、一見ゴミのようにしか思えないクズが舞う中、楽しそうに遊ぶ生徒たちの姿は美しく、そしてその裏に潜む人生の儚さを感じさせ、心が震えた。

感情を抑圧した人間としての八尋は、なかなか演じるのが難しい役柄で多部ちゃんも苦労をしてそう。逆に木村文乃さんは初舞台と言われているけど、八尋の対極としての鈴を好演していると思った。