nearproの日記

特に意味はありません。主に読んだ本をただただ記録します。

狭き門(光文社古典新訳文庫)

狭き門 (光文社古典新訳文庫)

狭き門 (光文社古典新訳文庫)

好きな小説作品を5つ挙げよと言われたら、僕は必ず『狭き門』を挙げるだろうというくらい、この作品は大好きです。そんな狭き門が、この度、光文社古典新訳文庫で発刊されるということを知り、生まれて初めて文庫本を発刊日に買いました。(と思ったら、とらドラ!最終巻を神保町でフラゲしたことを思い出しました。ただフラゲなので発刊日に買ったのは初めてというのは誤りではない)

既に新潮文庫版の記録がありますが、改めて感想など。

十分に知っている話だからか、サラッと読めました。もちろん新潮文庫の狭き門の訳は100年近く前の山内義雄のものであるので、それに比べるとやはり読みやすくなっているというのもあるように思います。また、丁寧な訳注が大変ありがたい。

こういった新訳はもちろん作品の面白さを再確認する楽しさとしての喜びもあるけれど、それに伴い新しい訳注、訳者のことば、解説解題を読めることも大きい。訳者の中条省平さんは、新潮文庫版に寄せた石川淳の跋の中で、アリサをカトリック神秘主義者のアリサではなくニヒリストとしてのアリサを見出していることに触れ、こう言っています。

『狭き門』とは、残酷な拷問者のごとき神を小説的な仕掛けとして用いて、ひたすら愛の崇高さを追求すれば死に至るほかないことを示した至純のラヴ・ロマンスとして読むべきだということになります。

確かに、新訳でこう読み返してみると、真にキリスト教的なのはアリサではなくジェロームのような気がしてきていました。そもそも、耐えることに喜びを見出しているのはアリサではなくジェロームであるのは間違いないですし、読者はずっとジェロームの目からみたアリサを語られ続けてるわけですし。

最後のアリサが自身と母親を重ねるシーンも、この新訳版のほうが印象に残った気がします。状況が整理しやすい新訳で読むと、いろんな伏線を回収しやすいのか、あるいは訳者の妙技がそこに隠れていたのかもしれませんね…!

人が愛として描きだすものと、わたしのそれとはひどく異なっている。わたしが望むのは、愛などという言葉はいっさい口にせず、愛していると知らずにあの人を愛すること。とりわけ、あの人に知られずに、あの人を愛したい。

愛の為には死ぬ外ない、という思想は少々過激でいかにも物語的ではありますが、幼少期に過ちを目撃することによって、性に対する嫌悪を感じ、潔白であることを求め、プラトニックラブに心奪われることになる、というのは物語の中だけでなく実社会のどこにでも転がっている話だとは思いますし、恋愛に潔白を持ちだして、その愛を高めようという発想は、古今東西のあらゆる童貞が試みるものだと思います。

ジェロームがほんのすこしだけ動いていれば、アリサがセックスを知ってしまえば、この物語は悲劇に向かわなかったのかもしれませんね。

こういった新訳発刊を機会にジッドについて興味をもつ人が増えれば良いと思います。昨年より筑摩書房からアンドレ・ジッド集成が発刊されていますし…絶版した名作も文庫本で蘇ってくれればとても嬉しいのですが、それはなかなか大きすぎる希望かもしれません。